92年ジャパンカップ


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 競馬ファンにとって、そしておそらく関係者にとってはより以上にジャパンカップは大きく厚い壁であった。カツラギエースが日本馬として初めて優勝したのは、外国馬が互いに牽制しあった結果だった。翌年シンボリルドルフが優勝したときの外国馬は、必ずしも一流とはいえなかった。これ以後、日本のエース達の挑戦は尽く跳ね返されてしまう。
 秋の天皇賞でオグリキャップをねじ伏せたタマモクロスも2着に敗れ、翌年のオグリキャップは世界レコードで駆け抜けながらクビ差で負けた。メジロマックイーンが次々と抜かれていったレースは後にも先にもジャパンカップだけであり、ファンにとっては悪夢のようなシーンであった。・・・これほどまでに日本と世界の差は大きいのか、と。
 一方外国の馬主からみれば世界一の賞金(当時)と輸送費用相手持ちのジャパンカップはおいしいレースである。そして世界一賞金が高い日本のレースにより多く参加することを望んだ。ジャパンカップを観れば分かるだろう?輸送費用分は軽く稼げるさ、と。逆に日本の関係者からすると日本のレースを開放してしまうと外国馬が席巻してしまうのではないかと恐れた。この年々高まっていく海外からの開放圧力と国内の不安感との狭間の揺れ動くなかで1992年のジャパンカップは行われた。
 この年、ジャパンカップは国際G1レースに格付けされる。このためかこの年の外国馬は極めて豪華なメンバーが揃う。欧州年度代表馬ユーザフレンドリー、オーストラリアの女傑レッツィロープ、英ダービー馬クエストフォーフェイム、ドクターデヴィアス、アーリントンミリオン馬ディアドクター、豪ダービー馬ナチュラリズム等々、「92年、世界で最も豪華なレース」と称されたのもあながち間違いではない。
 これに対する日本馬は春の天皇賞馬のメジロマックイーンが骨折のため休養中であり、この年の2冠馬ミホノブルボンも怪我のため休養(後に引退)していた。出走馬の大将格は2冠馬トウカイテイオーであったが春秋の天皇賞で惨敗しており、その秋の天皇賞馬のレッツゴーターキンではやや力不足の感が否めなかった。

 ジャパンカップ当日は前夜の雨が嘘のように晴れ渡り、絶好のコンディションでレースを迎えることとなった。日本の軽くて堅い馬場を心配していた外国馬の関係者も前夜の雨でコースがやや重くなっていることを歓迎して皆ニコニコとしており、ジャパンカップのパドックは豪華な出走馬に劣らず一層華やいだ雰囲気となっていた。
 11月末の太陽が傾きだして日差しがやや翳りだした頃、ジャパンカップは発走を迎える。発走を告げるファンファーレとそれに続く大歓声。それが収まると14頭の優駿が次々とゲートに納まり、最後に大外枠のトウカイテイオーがゲートに入った。静かになった府中競馬場にスターターの合図が響きジャパンカップがスタートした。
 まずレガシーワールドが先手を取りドクターデヴィアス、ユーザフレンドリーがそれに続く。トウカイテイオーは中団に位置していた。弛みのないペースでレースは進み、西日を受けて走る優駿達は向こう正面でやや霞んで見えた。3コーナーから4コーナーにかけて後続馬達が徐々に上がっていく。4コーナーから直線を向くと、粘るレガシーワールドをユーザフレンドリーが抜きにかかる。この2頭の叩き合いを尻目にナチュラリズムが最内から抜け出した。そして外からもう1頭、ピンクの帽子トウカイテイオーだ。
 「お?、おお?、おおっ!、うおーーー!!」。完全にナチュラリズムとトウカイテイオーの2頭が抜け出した。しかもテイオーの方が足色がいいぞ。勝てる、勝てるぞ!。馬券なんてもう関係ない。「行け!行け!行け!行け!」。
 必死に逃げるナチュラリズムと追いつめるトウカイテイオー。そして2頭の馬体が併さり遂にトウカイテイオーがナチュラリズムを交わして先頭に立った。しかしナチュラリズムも風車のような鞭を受けて必死でトウカイテイオーに食い下がる。
 「行け!行け!行け!行け!」。もはや単純な言葉しか口の中から出てこない。そしてトウカイテイオーはクビ差のリードを保ったままゴールを駆け抜けた。日本の馬が、トウカイテイオーが勝ったのだ。「やった、やった、やったー」。私の口からは相変わらず単純な言葉しか出てこなかった。

 ウィニングランでゆっくりとトウカイテイオーがスタンド前に戻ってくると熱狂的なテイオーコールが沸き起こった。「テ・イ・オー、テ・イ・オー」。配当を考えるとおそらく大半の人は馬券を外したはずだ。しかしみんなトウカイテイオーの優勝に興奮せずにはいられなかった。オグリキャップが、そしてメジロマックイーンが涙をのんだ世界の壁が、トウカイテイオーによって遂に崩れたのだから。この想いはこのレースを観ただけでは分からないかもしれない。
 「日本でレースをする限り日本の馬が有利なんです。恐れることはないんです」。TV中継で故大川慶次郎氏が語っていた。それは確かにその通りなのだろう。1番人気に押されるような外国の有力馬の多くがジャパンカップで惨敗したのに比べれば、日本の有力馬は勝てないまでも健闘はしているのだから有利なのは間違いない。しかし実際には日本の馬が負けたシーンばかりをファンは見続けていたのである。だから日本のレースの開放には時期尚早と、皆が考えていたのだ。だがこのメンバーを相手にトウカイテイオーが勝ったことによって、前述の大川氏の言葉に初めて実感を持つことができるようになった。
 もっとも日本馬のレベルはそれ以前から、少なくともトップホースの実力は海外の一流馬と互角の能力があったのかもしれない。91年のジャパンカップで4着に敗れたメジロマックイーンは、93年のジャパンカップを優勝したレガシーワールドに、その前走の京都大章典でぶっちぎりで勝っている。同じメンバーで10回レースをやったとして10回とも負けるとは考えられない。恐らく壁は馬ではなく人間の方にこそあったのだろう。過剰なまでのファンの期待、「日の丸」を背負うという意識、一流外国馬に対する畏怖や逆に見知らぬ外国馬に対する警戒感など、諸々のプレッシャーが関係者を縛っていたはずだ。そんな人間達の葛藤を、いや呪縛といってもいいものを打ち破ってくれたのがトウカイテイオーだった。
 思えばトウカイテイオーは色々なことを私たちに教えてくれた。当時は「坂路調教では一流馬は出ない」と言われていたがトウカイテイオーによってこの格言は破れ、翌年の「坂路の申し子」ミホノブルボンの出現とその後の「西高東低」時代によって坂路調教の重要性を我々に知らしめた。また調教技術の進歩によって休み明けでもG1レースを勝つことができることを教えてくれたのもトウカイテイオーだった(最も未だにテイオーの様な過程を経てG1レースを勝った馬などいないが)。そして日本の馬が、少なくても日本のレースであれば外国の馬に引けを取らないことを教えてくれたのがトウカイテイオーなのである。トウカイテイオーは特別な馬なのだ。

 92年以降ジャパンカップの様相は一変した。93年はメジロマックイーンが引退してビワハヤヒデが回避したエース不在の中でレガシーワールドが優勝した。94年はビワハヤヒデの引退とナリタブライアンの回避のため更に手薄な状態ながらマーベラスクラウンが優勝した。その後も日本牝馬の3年連続2着、そしてエルコンドルパサー、スペシャルウィークによる連覇へと続く。また日本のレースは徐々に開放されていったが、賞金稼ぎの外国馬に席巻されるようなことも起きなかった。日本の馬達は海外の一流馬と堂々の勝負を演じるようになり、最早外国馬に対するコンプレックスは無くなった。ファンも関係者も海外のレースを意識するようになり、やがてタイキシャトルやエルコンドルパサーのように海外でも活躍する馬を出すに至る。そのターニングポイントとなったのは、92年のジャパンカップでのトウカイテイオーの優勝であった。

ツカ
2000.01.18



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